【第三楽章】

1.黒く染まる聖域


「希望の谷」――。そこはパナシェール教国の中でも、最も魔力の純度が高く、クリスタルのように透き通った滝が奏でる「自然の旋律」に満ちた場所だった。敗走中のMIKAたちにとって、そこは傷を癒やすための最後の聖域(アジト)のはずだった。
だが、空が裂けた。
雲を割り、降臨したのは帝国の誇る「最悪」の兵器――魔導蒸気兵器『鉄竜(アイアン・ドレイク)』の編隊である。


「……音が消えた?」


MIKAの肩の上でちび先生が微かに震えた。
滝の音も小鳥の囀りも一瞬にして上書きされたのだ。空気を震わせるのは巨大な歯車が噛み合う「ギギギ……」という金属の軋みと、大気を強引に吸い込む吸気ダクトの異様な唸りだけだった。
アイアン・ドレイクが吐き出すのは単なる煙ではない。魔力を汚染する「魔導重油」の混じった黒い霧だ。清らかだった滝は一瞬でどす黒く汚れ、周囲の美しいアイリスの花々はその熱と毒によってドライフラワーのように焼き枯れ崩れ落ちていく。

2.魔法の分解、祈りの無力


「ああっ、子供たちが! 誰か、あの子を!」


避難民の悲鳴にMIKAが飛び出した。
一人の少女がアイアン・ドレイクが放つ熱波の前に立ち尽くしている。少女の手にはお菓子の魔法で淡く光る小さなオルゴールが握られていた。


「響き渡れ、守護の旋律(シールド・バリエーション)!」


MIKAは聖剣『ブラン・プレリュード』を全力で掲げた。幾重にも重なるピンク色の魔法陣が展開され少女を包み込む。かつて、この盾が破られたことはなかった。
だが、アイアン・ドレイクがその巨大な顎(あぎと)を開き魔導蒸気の咆哮――『黒の共鳴波』を放った。
それは衝撃波ではない。「魔法」という構成式そのものをバラバラに解体する冷徹な論理の波動だ。


「……っ!? 結界が……融けて……!?」


MIKAの目の前で誇り高き守護の盾が、まるで黒い砂のようにパラパラと崩れ落ちた。
直後、爆風が少女を襲う。MIKAが身を挺して彼女を抱きかかえたが、少女の手からこぼれ落ちたオルゴールはアイアン・ドレイクの巨大な鉄の足によって無残な音を立てて踏み潰された。
パナシェールの「優しさ」が帝国の「効率」に完膚なきまでに敗北した瞬間だった。

3.軍師の屈辱、狂気への変奏


「……ボクの、負けだ」


撤退する敗残兵の最後尾、MIKAの肩の上で、ちび先生はかつてないほど低い声で呟いた。
その小さな手は血が滲むほどに指揮棒(タクト)を強く握りしめている。


「ボクの計算では、あんな質量の魔導駆動は不可能だったはずだ……。なのに、あいつらは、パナシェールの魔力そのものを『燃料』として喰らいながら動いてる……!」


ちび先生にとってそれは戦術的な敗北以上に知的な屈辱だった。自分の愛する世界の「響き」が敵の動力源にされている。
逃げ延びた森の奥、激しい煤を含んだ黒い雨が降りしきる中、ちび先生はMIKAの肩から飛び降りた。
彼は地面に落ちていた、まだ熱を帯びたままの鉄竜の装甲破片――自分の体よりも大きな鉄片――に飛びついた。


「……ちび先生? ダメだよ、そんな熱いもの……!」
「黙っててMIKA。……ボクはこの『不協和音』の正体を知らなきゃいけないんだ」


ちび先生は小さな前歯でその忌まわしい鉄片をガリガリと執念深く噛み砕き始めた。
口の中が火傷で赤く腫れ、鉄錆の味が彼の舌を刺す。だが彼は止めない。
味覚を通して、金属の分子構造、魔力の循環リズム、そして設計思想の「歪み」を脳内に直接ハックしていく。


「……熱い……不味い……気持ち悪い……。でも見つけた。見つけたよこの曲の『弱点』を……!」


モノクルの奥でちび先生の瞳が怪しく青く燃え上がる。それは軍師の瞳ではなく、獲物の急所を見定めた獣の光だった。

4.煤の中の決意


黒い雨は降り止まない。
傷ついた兵士たちはもはや声を出す気力すら失い、泥にまみれて座り込んでいる。MIKAもまた砕かれた聖剣の盾と踏みにじられた少女のオルゴールを思い出し涙をこらえていた。
ちび先生は泥だらけのままMIKAの膝に這い上がると、小さな体で彼女の手のひらに寄り添った。
その温もりだけが今のMIKAにとって唯一の救いだった。


「MIKA。……次は、負けない。ボクが最高の『飴玉』を用意してあげる」


ちび先生の声は再び冷徹な、しかし絶対的な自信に満ちたトーンに戻っていた。


「でもね、あいつらの分厚い装甲を突き破るには、今の『ブラン・プレリュード』の優しい音じゃ足りない。……もっと鋭くもっと気高く。君の中に眠っているあの『アイリスの色』を呼び覚まさなきゃダメなんだ」


MIKAは暗雲に覆われた空を見上げた。
絶望という名の前奏曲(プレリュード)は終わった。
次に奏でるべきは鋼鉄を穿ち、世界を震撼させる反撃の交響曲(シンフォニー)のみ。
森の奥底で一匹のハムスターと一人の王女が、帝国の喉元を食い破るための「えげつない楽譜」を書き直し始めた。

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