三月も半ばを過ぎると、夜の空気は冷たさの中に、どこか暴力的で生ぬるい春の気配を孕むようになる。
ゴォォォッ、と低い唸り声を上げてビル風が吹き荒れ、シャッターの閉まった商店街を容赦なく叩きつけていた。
春一番と呼ばれるその突風は人々から傘を奪い、歩みを強制的に止めさせるほどの威力を持っている。
源治(げんじ)は風に煽られないよう古びたハンチング帽を深く被り直し、肩をすくめて裏路地を歩いていた。
六十八歳。今日、四十年続けてきた小さな時計修理店を畳んだ。
スマートフォン一つで時間が分かり、壊れれば安く買い替える時代。ゼンマイを巻きミリ単位の歯車と睨み合う老眼の職人は、もうこの街には必要なかった。
「長い間、お疲れ様でした」。商店街の連中から渡された花束は、今の源治には自分という古い時計が完全に停止したことを告げる引導のように重かった。
行き場を失った秒針のように意味もなく路地裏を彷徨う。
ふと、突風が路地のゴミ箱を派手に倒した。その音に驚いて顔を上げた源治の視界の先にぼんやりと揺れるオレンジ色のランプが見えた。看板もないひっそりとした木の扉。
風を避けるためだけのほんの気まぐれだった。源治は軋む関節を誤魔化しながらその重い扉を押し開けた。
カラン、と控えめなベルが鳴る。
――瞬間、外の暴力的な暴風音が嘘のように遮断された。
店内を包んでいたのは古い柱時計の振り子のように静かで規則正しい静寂。そして、肺の奥までゆっくりと染み込んでくるようなかすかな出汁と木の香りだった。
「いらっしゃいませ。外はひどい風でしょう」
カウンターの奥からショートボブの髪を揺らしてMIKAが微笑みかけた。彼女が身につけている少し色褪せたエプロンは、どこか源治が長年愛用していた作業エプロンに似た使い込まれた布特有の温かみを持っていた。
促されるまま一番奥の席に腰を下ろす。
源治は自分の両手を見つめた。長年ピンセットを握り続けたせいで指の関節は太く変形し、今は微かに震えている。この手はもう何も直せない。何の役にも立たない。そんな自嘲的な思いが胸をよぎった、その時だった。
「……ん?」
ふと視線を横にずらすと、隣に置かれたワインレッドの小さな椅子の上に一匹のジャンガリアンハムスターが座っていた。
ただのペットではない。彼はMIKAとお揃いの特注エプロンをピシッと身につけ蝶ネクタイまで締めている。源治が目を丸くしていると、その小さなハムスター――ちび先生は、黒く澄んだ瞳でじっと源治の「震える手」を見つめた。
次の瞬間、ちび先生は短い手足を動かしてカウンターの上をトコトコと歩き、MIKAのそばに置かれていた湯呑みの束から、一番分厚く、土の温もりが感じられる陶器の湯呑みを、両手でポンッと叩いた。
「……そうね。今日はまず、それがいいかもしれない」
MIKAはちび先生の意図を完璧に汲み取り、その湯呑みにポットからお湯を注いだ。茶葉はいれない。ただの純粋な白湯(さゆ)だ。
ちび先生はその温かい白湯が入った湯呑みを、小さな両手と全身を使ってズズッ、ズズッ、と源治の目の前まで押し出してきた。そして「まずはこれで手を温めろ」とでも言うように短く顎をしゃくったのだ。
「……お前さん、もしかして俺に言ってんのか?」
源治が半信半疑で両手で湯呑みを包み込むと、分厚い陶器越しに、絶妙な温度の熱がこわばった手のひらへとじんわり伝わってきた。
熱すぎずぬるすぎない。冷え切った血流をゆっくりと溶かしていくような完璧な温度。白湯の微かな湯気が源治の顔を優しく撫でる。
不思議なことだ。あれほど微かに震えていた指先が、その温もりを抱きしめているうちにピタリと治まっていた。
「……大したもんだ。相棒、よく分かってるな」
源治がぽつりとこぼすと、ちび先生はワインレッドの椅子に戻り「当然だ」とばかりにふんぞり返って短い尻尾をパタンと揺らした。その姿がどこか可笑しくて、源治の口元から今日初めての小さな笑みがこぼれた。
「ちび先生は、うちの優秀な支配人ですから」
MIKAがクスクスと笑いながら目の前のコンロに火を入れた。
シュボッ、という青い炎の音が静かな店内に響く。
「冷えた身体には、少しだけ『刺激』と『音』が必要ですね。今、お作りします」
MIKAは炊飯器を開け、ふっくらと炊き上がった真っ白なご飯を、濡らした両手で優しく、しかし空気を含ませるように手早く三角形に握り始めた。
リズミカルなその手つきは、かつての源治が時計の歯車を組み上げる時のように一切の無駄がない。
熱した焼き網の上にその白いおにぎりが乗せられる。
チリッ、チリッ……と、表面の水分が弾ける乾いた音が鳴り始めた。
やがてMIKAは小さな刷毛を使って、おにぎりの表面にたっぷりと醤油を塗り始めた。
――ジュワァァァァッ!!
その瞬間、暴力的なまでの「焦がし醤油」の匂いが爆発するように店内に広がり源治の鼻腔を真っ直ぐに撃ち抜いた。
醤油が熱で焦げ、炭水化物と結びつくことで生まれる日本人のDNAに直接刻み込まれた抗いがたい香り。香ばしく少しだけ煙たくて胃袋の奥底を直接掴んで揺さぶるような圧倒的な匂い。
「……っ」
源治は思わずごくりと喉を鳴らした。
花束を貰った時からずっと、腹の中には重い鉛が詰まっているような気がしていたのに。この匂いを嗅いだ瞬間、胃袋が「早くそれをよこせ」と激しく自己主張を始めたのだ。
「もうすぐ焼けますからね」
MIKAが刷毛を返すたび、ジュワッ、という音と白い煙が上がりちび先生がその匂いにたまらないというように鼻をヒクヒクと動かしている。
焼き網の上で真っ白だったおにぎりが完璧なべっ甲色に染まっていく。
表面の醤油がチリチリと焦げる音は、かつて源治が毎日聞いていたあの規則正しい時計の秒針の音にどこか似ていた。
「お待たせしました」
MIKAが深さのある陶器の器を源治の前にそっと置いた。
中にはこんがりと焼き上がった大きめの焼きおにぎり。その頂上にはほんの少しの三つ葉と、ツンとした香りを放つおろしたての生わさびが乗せられている。
だが、これで完成ではなかった。
MIKAは南部鉄器の小さな急須を手に取ると、焼きおにぎりの上から、静かに、しかし勢いよく熱々の出汁を注ぎかけたのだ。
――ジュワッ……! チリチリチリッ!
熱湯のような温度の出汁が焦がし醤油に触れた瞬間、店内に爆発的な香りの竜巻が巻き起こった。
鰹と昆布の深く上品な香りに、醤油の暴力的なまでの香ばしさが溶け合い、そこに三つ葉の爽やかな青さとわさびの刺激が複雑に絡み合う。
「……っ!」
源治は目を見開いた。胃袋が、いや身体中のすべての細胞が「それを食わせろ」と総立ちになって叫んでいるような錯覚に陥った。
「真夜中の極上焼きおにぎり出汁茶漬けです。熱いうちに、崩しながらどうぞ」
促されるまま源治は木製の匙(さじ)を手に取った。
匙を入れると出汁を吸って少しだけ柔らかくなった表面が、ザクッ、という小気味よい音を立てて崩れた。中からはまだ真っ白でふっくらとした米粒が湯気と共に顔を出す。
そのまま、琥珀色の出汁と一緒にすくい上げ、火傷しそうなほど熱いそれを一気に口へと運んだ。
――美味い。
そんな単純な言葉では、到底表現しきれない味だった。
カリカリに香ばしい外側とふんわりとした内側の食感のコントラスト。そこに旨味の塊のような熱い出汁が染み込み、噛むたびに口の中で渾然一体となって弾ける。生わさびのツンとした刺激が焦がし醤油の濃厚な風味を見事に引き締め、ひと口、またひと口と匙を進める手を止まらなくさせた。
夢中で匙を動かしていると、ふと横から小さな小皿がスッと押し出されてきた。
視線をやるとちび先生が小さな両手を使って、きゅうりの浅漬けが乗った小皿を源治の器の横に並べてくれたところだった。
「……気が利くじゃないか、ちび先生」
源治が声をかけると、ちび先生は「箸休めも大事だからな」とでも言うように短く頷きMIKAの方へ視線を送った。
MIKAもまた、ちび先生の動きに合わせて「ええ、少し口の中をさっぱりさせてくださいね」と微笑む。
二人の間には言葉以上の完璧な連携があった。どちらが上でも下でもない。ひとつの空間を共に作り上げる対等で誇り高き職人同士の阿吽の呼吸がそこにあった。
浅漬けをかじり、ポリッ、という瑞々しい音を響かせる。
きゅうりの冷たさと塩気が熱くなった口内をリセットし、再び出汁茶漬けの強烈な旨味を新鮮な驚きと共に迎え入れさせてくれる。
「……美味いな。本当に」
源治は半分ほどになった器を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「俺も、四十年間、小さな時計屋をやってきたんだ。毎日毎日、虫眼鏡を覗き込んで、ミリ単位の歯車と睨み合って……。でも、もう誰もそんな手間のかかる仕事、必要としてねぇんだよ」
自嘲気味な笑いが漏れた。
「壊れたら新しいのを買えばいい。時間はスマホで見ればいい。俺が人生をかけてやってきたことは、結局、時代遅れの無駄な作業だったんだって、今日店を閉めてようやく気づいたよ。俺の時間は今日で完全に止まっちまった」
外では春の暴風がなおもゴォォォッと唸りを上げている。
しかし、店内の時間はまるでそこだけ切り取られたように穏やかだった。
MIKAは急須を丁寧に布巾で拭きながら静かな声で口を開いた。
「……このお茶漬けの出汁を引くのに、どれくらいの時間がかかるかご存知ですか?」
源治が顔を上げると、MIKAはまっすぐに源治の目を見た。
「昆布を一晩水に浸して、火にかけて、沸騰する直前で取り出して。そこから鰹節をたっぷりと入れて、アクをすくって、一番澄んだところだけを濾し取るんです。……たった数分で飲んでしまうこのお出汁を作るのに、実はものすごく時間がかかっています」
MIKAは源治の太く変形した指先――長年ピンセットを握り続けた職人の手を優しい眼差しで見つめた。
「でも、その見えない『時間』と『手間』がなければこの味の土台は絶対に作れない。……あなたが四十年間、誰かの時計と向き合って重ねてきた時間は決して無駄なんかじゃありません。あなたの手が入った時計の音は、きっと誰かの人生の土台になって、今もどこかで静かに時を刻んでいるはずです」
その言葉が、熱い出汁と一緒に源治の胸の最も深いところへ落ちていった。
ちび先生がワインレッドの椅子の上から源治の顔をじっと見上げている。その黒く澄んだ瞳には同情など微塵もない。ただ「あんたの仕事は、立派だったじゃないか」と、同じ職人としての静かな敬意だけが宿っていた。
「……っ」
源治はぐっと奥歯を噛み締めた。
出汁の熱さのせいだろうか。それともわさびを少し効かせすぎたせいだろうか。鼻の奥がツンと痛くなり、目の前が不自然に滲んで器の中の米粒がぼやけて見えた。
こんな年寄りが情けない。源治は震える息を誤魔化すように最後の一口を一気に口の中へとかき込んだ。
匙が器の底に当たり、カチャリ、と小さな音を立てる。
空になった器の底には何も残っていなかった。あの重苦しかった絶望感も自分の人生を否定するような冷たさも、すべてこの熱い出汁茶漬けが溶かして流してくれた。
「……ごちそうさん。本当に、美味かった」
源治は立ち上がり、カウンターに代金を置いた。
そして長年被り続けたハンチング帽を一度取り、MIKAとそして、小さなちび先生に向かって深々と頭を下げた。ちび先生は短い手をスッと挙げて職人同士の無言のエールを返すように力強く一度だけ頷いてみせた。
「ありがとうございました。外はまだ風が強いですからお気をつけて」
重い木の扉を開けると先ほどと同じように春の暴風が吹き荒れていた。
しかし、源治の足取りは店に入る前とは別人のように力強かった。風に煽られてももう肩をすくめることはない。
胃の底にある熱い出汁の温もりが、止まっていたはずの心臓の歯車に再びチクタクと力強い命の音を吹き込んでいた。
吹き付ける春一番は、もう彼の歩みを止める障害ではなく、新しい季節へと背中を強く押してくれる追い風に変わっていた。
(第3話 終わり)
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