『泥濘の行軍』
王都パナシェールは、わずか数時間で「灰色の静寂」に包まれた。
かつて蜂蜜色の光に満ちていた街路は、帝国の魔導蒸気が吐き出す黒い煤に汚れ、美しい運河は鉄錆の味に変えられた。
MIKAは、逃げ延びた数少ない近衛兵たちと共に、王都北部の「嘆きの森」へと続く泥道を歩いていた。
「……っ、はぁ、はぁ……」
純白だったドレスの裾は泥にまみれ、聖剣『ブラン・プレリュード』を杖代わりにしなければ立っていることすらままならない。背後からは容赦なく降り注ぐ冷たい雨と、追撃してくる帝国軍の機械化歩兵による「ガシャン、ガシャン」という規則正しい駆動音が迫っていた。
「MIKA、気をしっかり。……ボクの毛並みが湿気でボサボサになっちゃうくらいひどい雨だけど。でも大丈夫だよ」
MIKAの肩、濡れた金褐色の髪に隠れるようにして、小さなちび先生が声をかけた。
彼はジャンガリアンハムスターの小さな手で、一生懸命に自分の毛を繕っている。その姿はあまりにも無力で頼りなく見える。
「ちび先生……ごめんなさい。私がもっと強ければ……」
「んー、MIKAが謝ることじゃないよ。悪いのは全部、あの無粋な鉄の塊(帝国軍)だもん。ボク、あいつらの音すっごく耳障りで嫌いなんだ」
ちび先生は、小さな頬袋に隠し持っていた最後の一粒のひまわりの種を「ポリポリ」と小気味よく噛み砕いた。その刹那、彼の片目に嵌まったモノクルが怪しく青い光を放つ。
泥の中の盤面(ボード)
「……来たね。足音の周波数、計四十八。重装歩兵三十二、魔導狙撃兵十六。……うん、いい感じに『不揃い』だ」
ちび先生の声から、先ほどまでの子供っぽさがスッと消え失せた。
彼はMIKAの肩から、彼女の「手のひら」へと飛び移る。雨粒の一つ一つが彼の周囲で静止したかのように錯覚するほどの圧倒的な集中力。
「MIKA。……ここからはボクの独唱(ソロ)パートだ。MIKAはただ、ボクの指し示す『音』になって」
「え……?」
MIKAが戸惑う間もなく、ちび先生は小さな手で指揮棒(タクト)を掲げた。
眼前に広がるのは、底なしの泥濘と鬱蒼とした森。だが、ちび先生のモノクル越しには、地形の傾斜、雨による地盤の緩み、そして敵の重装歩兵の「重量」による沈下率が完璧な楽譜として記述されていた。
「追い詰めた、と思っているのは彼らだけ。……ここは、ボクが用意した最高の舞台(ステージ)だよ」
奇策:泥濘のプレリュード
追撃してきた帝国軍の隊長が泥を跳ね上げて剣を抜いた。
「鼠一匹逃がすな! パナシェールの残党を、秩序の名の下に排除せよ!」
重厚な鉄の足音が、MIKAたちを包囲しようとしたその時。
ちび先生がタクトを鋭く横に一閃した。
「――変拍子。不協和音を泥の底へ」
その瞬間、地鳴りのような重低音が響き渡り、シンフォニックメタルの激しいリフが雨音を塗り潰した。
ちび先生が予見していた通り、重装甲で固めた帝国兵たちは、自らの重みによって、魔法で急激に液状化された泥の沼へと音もなく深く沈み込んでいったのだ。
「なっ……何事だ!? 足が……抜けん!」
「無粋ですね。……リズムに乗れない重装歩兵なんて、ただの鉄屑ですよ」
ちび先生はMIKAの手のひらで、優雅に、そして冷徹に次の指揮を執った。
嵐を呼ぶ旋律
泥濘に足を取られ次々と沈んでいく帝国兵たちの混乱の中、ちび先生はMIKAの手のひらで次の指示を淡々と下した。
「重装歩兵は無力化。……次は、魔導狙撃兵だね。彼らは後方から『魔法の弾丸』を撃ってくるよ。 MIKA、ここはボクの指揮に合わせて『盾の旋律(シールド・メロディ)』を展開して」
MIKAはちび先生の言葉にもはや躊躇(ためら)いはなかった。
聖剣『ブラン・プレリュード』を掲げると、その刀身から半透明の青白い光が放出される。
それは、彼女の聖女としての魔力が具現化した直径数メートルの魔法の障壁だ。
降り注ぐ雨が障壁に触れるたび、パチパチと淡い音を立て魔法の粒子へと変換されていく。
「な、何だ!? あの鼠(ハムスター)が何かしたのか!?」
帝国軍の狙撃兵たちが後方から魔導銃の銃口をMIKAたちに向けた。
鉛色の空に彼らの放つ「破壊の旋律」――赤い魔力の弾丸が煌めく。
「……遅いね。ボクの楽譜は既に次へと進んでいるんだよ」
ちび先生のモノクルが空間に無数の「防御パターン」を高速で投影する。
赤い魔弾がMIKAの『盾の旋律』に命中する直前、ちび先生のタクトが「トントンッ」と小刻みに動いた。
その瞬間、魔法の障壁が予測不能な速度で振動し、魔弾を全て「無害な泡」へと変えて弾き返したのだ。
「そんな馬鹿な! 奴らの魔法は我々の常識を逸脱している!」
天才の遊び、泥濘の結末
混乱する帝国軍をよそに、ちび先生はMIKAの肩に飛び乗り耳元で囁いた。
「MIKA。彼らボクの最高の舞台をまだ理解できてないみたい。……ねえ、あの大きな木の上狙えるかな? ボクの計算だとね、あの木の根元が一番緩いんだよ」
MIKAがちび先生の指差す方を見た。そこには幹の太い巨木が一本、泥濘の淵に立っている。
狙撃兵たちが展開していた後方の、まさに「守りの要」とすべき場所だ。
「……うん、ちび先生!」
MIKAは聖剣を構え、その刀身に自らの魔力を集中させる。
彼女の魔力は「祝福」の力。破壊ではない。だが、ちび先生の指揮の下ではその祝福すらも戦術となりうる。
「――変奏(バリエーション)。泥に愛を」
ちび先生のタクトが再び空間に円を描いた。
MIKAが放った祝福の旋律が、巨木へと吸い込まれていく。
その瞬間、巨木の根元を支えていた泥濘が、まるで命を吹き込まれたかのように「ブクブク」と泡立ち、根元から土砂崩れを起こしたのだ。
ゴオオオオオッ!!
巨木は轟音を立てて倒れ、狙撃兵たちを巻き込みながら泥濘の奥深くへと飲み込んでいく。
「な、何だと!? 一体何が起こっている!?」
「無粋だなぁ。……ボクの愛(祝福)を甘く見ちゃダメだよ。MIKA、お片付けはこれで終わり。次へ行こう」
ちび先生は小さな体を大きく伸ばしてあくびをした。
彼の瞳はもう無邪気な子供の輝きに戻っている。
新たな譜面
雨が弱まり嵐が去りゆく空に、ほんのわずかな光が差し始めた。
MIKAは泥にまみれながらも、その光に向かって歩き出す。隣には再びMIKAの肩に乗り、大きな欠伸をしているちび先生。
「ふぁ~……MIKA、疲れたね。お腹減っちゃった。ボク、次の街で美味しいひまわりの種タルトが食べたいなぁ」
戦場の冷徹な軍師の姿は、今はもうどこにもない。
MIKAはそんなちび先生の小さな頭を優しく撫でた。
「ええ、ちび先生。きっと美味しいタルトを見つけましょう。……次の街まで私と一緒に歩いてくれる?」
「もちろん! ボク、MIKA様と一緒ならどこまでも行けるよ!」
王都を追われ泥濘の嵐を越えた二人の旅路は始まったばかり。
ちび先生は次にどんな「譜面」をMIKAに託すのだろうか。
雨上がりの森に二人の希望に満ちた足音が響き渡る。