聖教国パナシェールの朝は世界で最も甘い。
太陽が東の稜線から顔を出すと、大聖堂の鐘が鳴り響く。だが、それはただの金属の音ではない。音の粒子が柔らかな魔法の光となって街に降り注ぎ、人々の心を穏やかな「調律」へと導くのだ。
運河にはキラキラと輝くソーダ水のような水が流れ、街路樹には季節を問わずマシュマロのような白い花が咲き誇る。
「――ふふ、今日の風は少しだけ嬰ハ短調(C# Minor)の香りがしますね。とっても甘くて少しだけ切ない、素敵な朝ね」
大聖堂のバルコニーに立つ王女MIKAは、金褐色の髪を風に遊ばせながら、満足げに目を細めた。彼女が指先で空に円を描くと、そこからパステルカラーの音符たちがポロン、と零れ落ちる。音符は空中で結晶化し、半透明のピンク色のハートを伴って、彼女の周りをお菓子のように舞い踊った。
MIKAが放つ「お菓子の魔法」は、この国の平和そのものだった。
「MIKA、MIKA!見てこれ、新しいマカロンの魔法、ボクの方が上手く飛んだよ!えへへ、これなら今日のおやつ、三つくらい増やしてもいいよね?」
隣でぴょんぴょんと跳ねているのは、MIKAの唯一の側近であり、親友でもあるジャンガリアンハムスターのちび先生だ。
小さな体に漆黒のコートを纏い、片目には不思議な紋様が刻まれたモノクルを光らせている。今の彼は、どこからどう見てもお菓子が大好きな可愛い普通のハムスターにしか見えない。
「もう、ちび先生。そんなに食べたら後でお腹が痛くなってしまうよ?」
「えー、大丈夫だよ!ボク天才だから。難しいことなんて、おやつを食べながら考えればいいんだよ。ほら、見てて! この音符すっごく高く跳ねるよ!」
二人の笑い声が音楽の都に溶けていく。
パナシェールの人々は、この甘い安らぎが永遠に続くのだと、誰もが信じて疑わなかった。
その平和を切り裂いたのは、耳を劈(つんざ)くような不協和音だった。
「ギギギ……ッ」と、硬い金属同士が擦れ合う、生理的な嫌悪感を呼び起こすノイズ。
西の空から、パナシェールの青い空を「物理的に塗り潰す」ように、巨大な黒い影が這い寄ってきた。
帝国軍総統ガイウスの座乗艦、超弩級浮遊軍艦『ガイアデス』。
それは美しい自然や音楽とは対極にある、冷徹な「秩序」の塊だった。巨大な歯車が噛み合い、魔導蒸気の黒い煙を排出しながら、重厚な鋼鉄の船体が太陽を隠していく。
「……わあ、ボロボロだ。ボクの計算より少しだけ早いかな」
瓦礫が舞い悲鳴が上がり始めた瞬間、ちび先生の声から「熱」が消えた。
MIKAが驚いて隣を見ると、そこにいたのはさっきまでおやつをねだっていた毛玉ではなかった。
ちび先生は飛んできた石礫(いしつぶて)が頬をかすめても瞬き一つしない。ただ静かにモノクルを指で直し燃える街を一瞥する。その瞳はもはや景色を見ているのではなく戦場の「数値」を読み取っていた。
「ちび先生、どうしよう……民が、みんなが……っ」
「MIKA。……泣くのは後でもできるよ」
その声は深海のように静かで、底知れない冷たさを湛えていた。
幼い甘えは微塵もなく、ただ「最適解」だけを見つめる絶対的な知性。
「今はボクが譜面を書くから、君はそれをなぞるだけでいい」
王都の広場では帝国軍の機械化歩兵たちが次々と空挺降下を開始していた。
彼らの軍靴は民が大切に育ててきたアイリスの花を無慈悲に踏み砕き、平和の象徴だった街角を鉄の色に変えていく。
「無駄な装飾だ。音楽も、花も、祈りも。鉄の秩序の前に、それらは全て等しく不純物である」
旗艦の艦橋から見下ろすガイウスの視線は、アリの巣を観察する学者のように冷たい。
彼が指先をわずかに動かすだけで、街のあちこちで爆炎が上がり、MIKAが魔法で作った半透明のハートや音符たちは黒い煤(すす)となって消えていった。
MIKAは足元に転がってきた一つのマカロンを見つめた。
それは今朝、ちび先生と笑いながら作った蜂蜜色のマカロン。
泥にまみれ、色がモノクロへと溶けていくその小さなお菓子を見たとき、彼女の中の「何か」が弾けた。
「……私たちの心を、こんな鉄の塊で消させはしません。絶対に!」
MIKAが空に向かって手を伸ばすと、彼女の全身から眩い白銀の光が溢れ出した。
それは戦火の熱を打ち消すような、清冽な輝き。
「聖剣、ブラン・プレリュード!」
彼女の叫びに応え、空中から無数の「シュガースパークル」と「ピンクのハート」が渦を巻いて現れた。まるで豪華なティータイムの準備が始まるかのような、煌びやかで可愛いエフェクト。
だが、その光の渦の中心から顕現したのは、月光を宿したように鋭く気高い白銀の細剣だった。
「――全軍、傾注。これよりこの場をボクの盤面(ボード)と定義します」
抜剣したMIKAの隣で、ちび先生が指揮棒(タクト)を「すっ……」と水平に構える。
その瞬間、戦場を支配していた不協和音が止まり、腹の底を震わせるようなシンフォニックメタルの重低音が刻まれ始めた。
「邪魔なノイズ(帝国軍)が多いですね。……一小節で片付けましょう」
ちび先生のタクトが静かに、そして正確に振り下ろされる。
「MIKA、行って。ボクの指揮(リード)に遅れないでね」
「ええ、ちび先生!」
MIKAは透明な旋律の軌跡に導かれるように、瓦礫の街を光の速さで駆け抜けた。
白銀の聖女と、静かなるハムスター軍師。
二人の奏でる「反撃の交響曲(シンフォニー)」が、今、炎上する王都に鳴り響いた。



