深夜零時。雨上がり特有の濡れたアスファルトと土の匂いが混ざった冷たい風が路地裏を吹き抜けていく。
エナジードリンクの空き缶をゴミ箱に放り込みながら、香織はフラフラと覚束ない足取りで歩いていた。
デザイナーとして独立して三年。クライアントからの理不尽な修正指示の連続で、まともな睡眠をとっていない日が何日続いているだろう。コンビニのサンドイッチも、ゼリー飲料も、口に入れれば砂を噛んでいるような味がした。ストレスで味覚が麻痺しているのだ。
胃は空っぽなのに食欲はない。ただ、電池が切れるように倒れ込める場所を探していた香織の目に、ふと、ぼんやりと光るオレンジ色のランプが飛び込んできた。
無意識に重い木の扉を開けると、カラン、と優しいベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ。……ずいぶんと、お疲れのようですね」
声の主は、ショートボブの髪を耳にかけた若い女性だった。少し色褪せたエプロンを身につけた彼女――MIKAはカウンターの奥から静かに微笑みかけてくる。
香織がふらつくようにカウンターの席に腰を下ろすと、ふと、視界の端で何かが動いた。
「えっ……?」
カウンターの端。ワインレッドの小さな椅子の上に一匹のジャンガリアンハムスターが座っていたのだ。
彼はMIKAとお揃いの特注エプロンを身につけ首元には蝶ネクタイ。その黒く澄んだ瞳は、香織の目の下の濃いクマと青白い顔色をじっと見つめている。
「……ハムスター?」
香織が呟くと、彼はちいさな鼻をヒクッと動かし、スッと短い手を上げた。
するとMIKAが「そうね、ちび先生。今日はそれがいいかもしれない」と、まるで言葉を交わしたかのように頷く。
飼い主とペットという関係ではない。彼ら二人の間には長年連れ添った熟練の相棒のような、完全に対等で穏やかな空気が流れていた。
ちび先生と呼ばれた小さな相棒は、ワインレッドの椅子からよいしょと降りると、カウンターの上に置かれていたカゴの中から、小さな両手を使ってゴトリ、と「厚切りのベーコン」をMIKAの方へ押し出した。
「メニューはないんです。でも、今のあなたに必要なものは分かります」
MIKAはそう言うとコンロに火を点けた。
熱されたフライパンの上に、分厚く切られたバターが落とされる。ジュワァァッ……!という暴力的な音と共に、バターが溶け出し濃厚で甘い香りが一気に小さな店内に充満した。
砂しか感じなかったはずの香織の鼻腔を、その香りが強引にこじ開けていく。
続いてちび先生が押し出した厚切りベーコンがフライパンに投入される。バチバチと脂が跳ねる音。燻製された肉の香ばしい匂いが、バターの甘い香りと絡み合い、極限まで空腹だった香織の胃袋を直接鷲掴みにした。
「……っ」
香織は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。数日ぶりに湧き上がった「食べたい」という明確な本能だった。
卵と牛乳をたっぷりと吸い込んだ分厚い食パンがベーコンの脂とバターの海へ投下される。ジュワッ、という低い音が鳴り、パンの表面が黄金色に焦げていく匂いが立ち上った。
その間ちび先生はというと、香織の目の前にやってきて、小さな両手で器用に紙ナプキンとフォークを押し出し、スッと並べてみせた。
「あ……ありがとう」
香織が戸惑いながらお礼を言うと、ちび先生は「気にするな」とでも言うように短く一度頷き、また自分の特等席であるワインレッドの椅子へと戻っていった。その堂々とした後ろ姿に、香織の強張っていた頬が、自然と少しだけ緩む。
「お待たせしました。真夜中の『甘じょっぱい』特製フレンチトーストです」
目の前に置かれた白い皿。
表面がカリッと黄金色に焼き上がったフレンチトーストの上で、追加のバターがとろりと溶け崩れている。その横には、カリカリに焼かれた厚切りベーコン。
「仕上げは、こちらです」
MIKAが琥珀色のメープルシロップを、高い位置からとろりと回しかけた。
熱々のトーストの上でシロップが弾け、甘く芳醇な香りが爆発する。ベーコンの塩気とメープルシロップの甘さ。絶対に深夜に食べてはいけない、背徳的で抗いがたい匂い。
「……いただきます」
震える手でフォークを握り、トーストとベーコンを一緒に切り分ける。
ザクッ、という心地よい音。
ゆっくりと口に運んだ瞬間――香織の目が見開かれた。
カリッとした表面を破ると、中から熱々の卵液がジュワリと溢れ出す。そこに、ベーコンの暴力的なまでの旨味と塩気、メープルシロップの脳を揺らすような甘さが混ざり合う。
……味が、する。
ずっと麻痺していた味覚が、強烈な「甘じょっぱさ」の刺激によって一瞬で目を覚ましたのだ。
口の中に広がる強烈な「甘じょっぱさ」の波状攻撃に、香織は息をするのも忘れてフォークを動かした。
カリッ、ジュワッ、ザクッ。
静かな店内に心地よい咀嚼音だけが響く。分厚いベーコンの暴力的なまでの旨味が、限界まで擦り減っていた神経を叩き起こし、メープルシロップの優しい甘さが、焦げ付いていた脳の髄まで染み渡っていく。
美味い。信じられないくらい美味しい。
「ゆっくりで大丈夫ですよ。喉、詰まらせないように」
MIKAがクスッと笑いながら、コトリと小さなマグカップを差し出した。中には深い焙煎の香りを漂わせるホットミルクコーヒー。
そしてその横。ちび先生が小さな両手で角砂糖をひとつ、器用にコロコロと転がして香織の前に差し出した。まるで「頭を使ったあとは、これも入れとけ」とでも言うような、堂々とした振る舞いだ。
「……ふふっ、ありがとう、ちび先生」
香織が角砂糖をつまんでカップに落とすと、ちび先生は短い尻尾をピクッと動かし、「どういたしまして」とばかりにふたたび自分の特等席――ワインレッドの椅子で毛繕いを始めた。
そこにあるのはやはりペットと飼い主という主従関係ではない。互いに店を切り盛りするマイペースで対等な相棒としての佇まい。その穏やかな空気が香織の肩に入っていた余計な力をスッと抜いてくれる。
温かいミルクコーヒーを一口飲む。
じんわりと胃の底から熱が広がっていく。その熱は冷え切っていた手足の指先まで巡り、やがて胸の奥の、ずっと蓋をしていた柔らかい部分へと到達した。
「私……ずっと、自分が何を食べているのか、分からなかったんです」
ぽつりと、香織の口から弱音がこぼれ落ちた。
「独立して、舐められちゃいけないって、全部の仕事を完璧にこなそうとして。寝る間も惜しんで画面に向かって……気づいたら、空が明るくなっている毎日で。何を食べても砂みたいで、でも、立ち止まったら全部消えちゃう気がして、怖くて……」
MIKAはコーヒー豆を片付ける手を止めず、ただ静かに相槌を打った。
「一生懸命に走っていると、自分が息切れしていることにも気づけなくなりますからね」
布巾でカウンターを丁寧に拭きながら、MIKAは香織の目の前に立つ。
「でも、人間の身体は正直です。エネルギーが空っぽのまま走り続けられるエンジンなんてどこにもないんですよ。だから今日は、ちび先生が『特大の燃料』を選んだみたいです」
MIKAの視線の先ではちび先生が小さくあくびをしている。お揃いのエプロンが呼吸に合わせて上下に揺れていた。
その平和な光景と、胃袋を満たす圧倒的なカロリーの温もりが、香織の中で張り詰めていた糸を完全にほどいた。
喉の奥がギュッと熱く締め付けられる。
鼻の奥がツンと痛んだのは、きっと、ベーコンの黒胡椒が少し効きすぎていたからだ。視界が不自然に揺らぎ、手元のフレンチトーストが滲んで見えたのも、熱々のミルクコーヒーから立ち上る湯気のせいだ。絶対に。
香織は大きく息を吸い込み、コーヒーと一緒に、その熱い塊を飲み込んだ。
「……最高に美味しい、燃料でした」
最後の一口を飲み込み、空になった皿を両手で包み込む。皿に残る微かな温もりが、今の香織には何よりも愛おしかった。
「お会計、お願いします」
財布を取り出すとMIKAはゆっくりと首を横に振った。
「深夜割増はいただきません。その代わり、今日はちゃんとベッドで泥のように眠ること。それがうちのルールです」
「……ふふ、厳しいお店ですね」
「ええ。うちの『ちび先生』が睡眠不足には特に厳しいので」
MIKAが視線を向けると、ちび先生はワインレッドの椅子から立ち上がり、小さな両手を腰に当てるようなポーズで、香織をビシッと見据えていた。「分かったな?」とでも言いたげなその態度に香織は思わず吹き出してしまった。
「はい、先生。今日はもうパソコンの電源は入れません」
重い木の扉を開けると雨は完全に上がっていた。
雲の切れ間からぼんやりと青白い月が顔を覗かせている。深夜の冷たい風が頬を撫でたが、不思議と寒さは感じなかった。身体の芯にはあの甘じょっぱいフレンチトーストの熱と、ミルクコーヒーの温もりが確かな重みとなって残っている。
「ありがとうございました。また、来てもいいですか?」
振り返って尋ねると、MIKAは少し色褪せたエプロンを揺らしながら柔らかく微笑んだ。
「ええ。真夜中に燃料が切れた時はいつでも。気をつけてお帰りください」
カウンターの端ではちび先生が短い手を上げて小さな見送りの挨拶をしてくれている。
香織は小さく頭を下げ再び夜の街へと歩き出した。
アスファルトを踏みしめる足取りは、数十分前にこの路地に迷い込んだ時とは別人のように力強かった。
振り返らなくてもわかる。背後にはあの温かいオレンジ色のランプが灯台のように優しく路地裏を照らし続けていることを。
(第2話 終わり)
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